清塚信也 OFFICIAL BLOG: 2010年6月

« 2010年5月 | メイン | 2010年7月 »

2010.06.17

功利主義

功利主義...利益と幸福とを求めることが、人生・社会の最大の目的であるとする思想的立場。

...というと何となく聞こえは良いけれど、
この主義の主張を聞いていると、
人間にとっての「幸福」とは、そして「美徳」とは一体何だろう?
と考えさせられてしまう事が多い。
多くの人々(つまり社会)が幸福を最大に感じられるためには、
少数の人々(もしくは個人)の犠牲は仕方がないといった考えに行き着く場合があるからだ。

4人の登山チームが山で遭難して食料が残り少なくなってきた。
このままでは全員が死んでしまうと見たリーダーは、
「4人の内の誰かが犠牲になって死に、死んだ人の食料を残った3人に分配しよう」と提案した。

果たしてこういう考え方は正しいのであろうか?
例え、4人全員が賛成し、
フェアーなやり方で犠牲者が決められたとしても、
1人の犠牲のおかげで3人が生き残ったという事に、
社会では賛否両論が飛び交うに違いない。

1人の犠牲の上に多数の幸福。
もしこの原理だけを応用するとしたら、
クラスで1人の子供をいじめる事によってそのクラス全員が「楽しい」と感じるのなら、
そのクラスでのいじめは正しい行為だと受け入れられる事になってしまう。
当然、人や社会には「道徳心」というものがあるから、
状況に応じて人の道を外れない範囲で功利的な考えをしなくてはならない、
という意見がここで出てくるのだろうけど、
じゃあ、一体「人の道に外れない範囲」というのは誰が決めるんだ?という事になる。

ある人は「そういう時のために『法律』があるんだ」と言っていた。
そうだろうか?
法律は「人はこうやって生きるべきだ」という事にまで口だしするべきだろうか?
もしその権限が法律にあるとしたら、
社会にはたった一通りの「いい人」しかいなくなってしまう。
法律の言う「いい人」というのに当てはまらない人全員が悪人だなんておかしいと僕は思う。
人間性というものは多面的だし、社会だって多元的に出来ているんだから、
色んな種類の「いい人」がいるのは当然だ。

別に社会全体で考えなくとも、人付き合いでこういう状況っていくらでもあると思う。
2人いればもうそこにはそれなりの社会というものが存在するからだ。
何が正しいかなんて僕には分からない。
でも、何が正しいかを決められないようじゃ、善悪の定義はどうなるのだろう?
こうやって考えると、世の中はジレンマだらけだね。
でもね、めっちゃこじつけっぽくなってしまうけど、
僕がこのブログで言いたかった事は、
「Super Trio 3℃」で石田さんと金子さんと音楽してる時や、
假屋崎先生の華麗で美しいお花に囲まれてショパンを弾いている時は、
「何かの答えが出た」って気になるって事です。
ちょっとまだ整理されてなくて語るのは難しいのだけど、感覚的にそういう事ってないですか?
式を解いた訳ではないけれど、答えがなんとなく解ってしまう...みたいな。
どうしてかはちゃんと言えないのだけど、それが正しい行為だと確信を持って言える...とか。

僕は今まで「音楽家は医者やパイロットのようには
絶対的に社会に必要とされていない」と考えていたのだけど、
最近その考えが変わってきたのかもしれない。
たぶん。
それがステップアップなのかどうかは別として、
少なくとも僕の中では非常に意味のある変化です。
功利主義という考えが出てきたのは、社会にジレンマがあるからだと思う。
そして、ジレンマがあると言うことは、
一つの物事に対してもう一つ対抗する勢力があるという事。
確かに。うん。そうだ。
大抵物事は簡単には進まないし、
誰かの幸福には誰かの犠牲がついてまわる事もよく感じる。
だけど、崇高な芸術が繰り広げられている空間には、それが感じられない。
上野の東京文化会館での公演。
3℃のメンデルスゾーンの終わり近くになって盛り上がってきた時、
「この行為に害があるか?」と僕は一瞬考えた。
しかし、どうしても害らしきものは見つけられなかった。
もしかしたら「ふざけんなよ、めっちゃへたくそじゃないか」と
怒っていたお客様も中にはいらっしゃったのだろうか?
うん、いたかもしれないな。
みんなを説得する音楽なんてこの世にはないのかもしれない。

美しい芸術・音楽においては、功利主義の主張自体が必要なくなるんだ。

僕はこれからもそんな舞台を経験出来るように、頑張っていこうと思います。
だから、また生で聴きにきてね。

2010.06.16

おわび

昨日(6/15)『Super Trio 3℃』のコンサートを終えました。
まずはお詫びを言わなくてはなりません。
コンサート終了後のサイン会で、
石田さんのCDを僕の所に持っていらしたお客様に、
僕はサインを遠慮させて頂きました。
石田さんのCDに僕のサイン...というのも何かしっくりこないし、
石田さんに悪いような気もするし、
石田さんファンからしてみれば「石田さんのサインだけ」が欲しいかもしれない、
......等々の考えから遠慮させて頂きました。

でも中には、石田さんのCDを持っていらして
「清塚さんのサインも下さい」と仰られる方もいらっしゃいました。
僕は幾度となくこの「サイン会」というのを経験していますが、
なかなかフェアーに終わらせることが難しくて悩んでしまいます。
経験上、一人目のお客様からやっていることは最期までやり通さないと、
後々「私は断られたのに...」と仰る方が出てきます。
これは当然です。
なので、昨日も「始めの方から石田さんのCDにはサインしていないので、
今回はご遠慮願います」と言いましたが、
その時のそのお客様のとても残念そうな表情は忘れられません。
ぐらっと心が揺るいで「まぁいっか!サインひとつ!!」みたいな気持ちになるのですが、
でも、経験上ここで負けると後が大変なのです。
だから、昨日、石田さんのCDをお持ちになって僕のところにいらっしゃった方々、
僕の中ではいくらでもサインくらいしてあげたかったのですが、出来ませんでした。
ゴメンナサイ。
ていうか、打ち合わせの段階で決めておくべきでしたね。
いつも一人のコンサートが多いので、かなり戸惑いました。
でも次の「リリス」でのコンサートでは万全の構えでいきますよ。
もちろん、皆さんにサインしてあげたい気持ちは山々ですが、
それはそのホールの環境やサイン会の状況にかなり左右されますので、
ご理解とご協力をお願いします!

さてさて、このところけっこう忙しかったです。
紀尾井ホールでの假屋崎省吾先生とのコンサートと
上野の東京文化会館でのSuper Trio 3℃のコンサート。
色々とブログに書きたいことはあるのですが、
昨日デジカメをスタッフに渡したまま帰ってきてしまい、
写真を掲載できないので、デジカメを取り戻してからまた書きます。
では、僕は今から「W杯漬け」になります。
あーしあわせ。

2010.06.10

ジレンマが好き

僕はジレンマというのがわりと好きです。
これをこうするとあれがああなるから...
って道が行き止まりになると、
「いやいやどこかに逃げ道はあるはずだ」とじっくり考え始めます。
この「じっくり」ってとこが好きです。
普段僕は「無駄」が嫌いなところがあって
(それでも無駄ばっかりなんだけどね僕の人生)、
結構せっかちなところもあるから、
じっくり何かをやることって殆どないんだけど、
ジレンマが起こると途端にこの性格が変わります。

ヤマアラシはトゲトゲの針を体中に持つねずみみたいな動物です。
ヤマアラシ♂はヤマアラシ♀とくっつきたい。
こんなに寒い夜は彼女をぎゅっと抱きしめて眠りたい。
温め合いながら...
でも、近づけばお互いのトゲトゲで刺し合ってしまう。
だからって離れたら寒い、寂しい、哀しい...
トゲトゲがもしヤマアラシ♀にしかなかったのなら、
ヤマアラシ♂は喜んでトゲトゲに刺されてでも
ヤマアラシ♀を抱きしめに行っただろう。
ヤマアラシ♂は、寒さより、痛さより、
自分がヤマアラシ♀を傷つけてしまう事が耐えられなかった。
つかず離れず...
この大いなる呪い、愛という名の呪いにヤマアラシ♂♀はかかってしまったのである。

はぁ、こんな感動的なドラマ、ロミオとジュリエット以来だぜ...
なんて妄想をしては感動して、僕は人生を過ごしています。

子供を手中に落とした人食いワニは
「今俺が考えている事を当てたら子供は喰わないでやる」と子供の母親に言いました。
母親は「あなたは"この子供を喰おう"と思っている」と答えた。
もしワニが子供を喰おうと思っていたら
母親の言う事が当たりなので喰えないことになる。
母親の言葉がはずれたとしても、
ワニは「喰おうとは思っていない」という事になるのでやっぱり喰えない。

ワニさん...
ドジったな。笑

でも、僕は、、、
実は、このワニは人間の自然破壊によってエサが捕れなくなり、
仕方なく人間を襲わざるを得なくなった。
でも、人類になるべくダメージがないように「頭の良い人」は食べないようにしようと思った。
だから最初にこういう問題を出している。
......みたいなのが好きです。

でも、頭のいい人の定義を
ワニは独自の質問ひとつだけで判断しようとしたところと、
「馬鹿なら死んでも仕方ない」という
非道徳的な考えに至ったところで間違っていると言えよう。

......みたいな事を考えるのが好きです。
無駄じゃん、そんな事考えてたって...
とは言わないで。

2010.06.08

人吉公演を終えて

「大人になったら何になりたい?」
子供の頃、僕は子供にそんな質問をする大人を軽蔑していた。
もっとも、僕はかなり幼い頃から
「自分はピアニストという職業に就くのだ」と信じきっていたから、
その質問の答えに困ったことはないのだけど。

「僕は絶対にピアニストになるんだ!」

でも、今考えると、
どこからそんな自信が湧いていたのかとても不思議である。
人生を逆算して考えてみると、
ピアニストになるってことほど綱渡り的な事ってそうはないと思うんだけどね。
僕は多分、何の自信も根拠もないまま
「ならなきゃいけない」と自分に言い聞かせてたのだと思う。
周囲の期待もあったし、学校もろくに通ってなかったから、
"それしかない"と子供ながらに思い詰めてたんだと思う。

「僕は絶対にピアニストに"ならなきゃいけない"んだ...」

鹿児島空港から1時間も車を走らせると、熊本県人吉市に着く。
熊本県南部に位置するこの市は、険しい山々に囲まれた盆地であり、
古くから天皇が身を隠すのに使った程の"秘境"である。
「いやね、わたしも初めは『米なんて』と思っていたんです。
 だけどね、数年するともう『米こそが焼酎』と思うようになる。
 それくらい米焼酎は奥が深いですよ」
飲んでみると、確かに、芋とはまた違った奥深さがある気がした。
米だから芋よりは臭みもないし甘みがある。
もしかしたら『芋こそが焼酎』と思っている人にとっては物足りないかもしれない。
僕も実は『芋焼酎派』だったのだけど、
米を飲んでみるとやっぱりそこには"伝統"や"地域の愛"みたいなのを感じて感動した。
しかも、日本酒に近い味なのに次の日に残らない。
僕は二日酔いや翌日に残るって感覚あんまり感じた事が無かったから解らなかったのだけど、
それでもこの米焼酎というのはどんなお酒より朝の目覚めが良いと思えたのは、気のせいだったかな。

「みんな何かになる」

僕はそう思っていた。
子供の頃、大人が「大人になったら何になりたい?」と質問する度に思っていた。
みんなそれぞれの人生の主役として生きている。
そして、みんな何かに、なる。
でも、今僕は大人になってみてよく解った。
大人は、それほど真剣に子供にその質問をしていたわけではないのだ。
多分、質問した大人は、
自分の質問によって子供がこんな事考えているなんて思いも及ばないだろう。
大人になるっていう事は、真剣に質問しなくなるって事だ。
ある意味では。

人吉の人々はとても真剣に話をしてくれた。
今の世の中のこと、口蹄疫のこと、高速道路が出来て良かったことから米焼酎のことまで。
全ての話をするときが真剣そのものだった。
僕は、それがとても気持ちよかった。
コンサートを終えての翌朝、米焼酎の甘い香りは、もう僕から綺麗にいなくなっていた。
鳥はさえずり、川は流れ、国宝の「青井阿蘇神社」さえ"生きている"ように感じた。

2010.06.02

鹿児島ゆきの飛行機にて

僕は飛行機の中にいた。
あんな事を思ったのはどこの空だったのだろう?

富士山はとっくに過ぎていたし、
そこから鹿児島空港に着くまでは、
まだけっこうあったような気がする。
とはいえ、飛行機の中での出来事を降りた後で思い出そうとしても、
なかなか上手くいかなかった。
でもたぶん、四国とかそれくらいの空だったと思う。

パイ生地のような薄い雲の層の切れ目から覗く景色は、とても不自然だった。
山に囲まれた湖はフライパンの中で固まっている油のように見えたし、
所狭しとぎゅうぎゅう詰めにされている家や車は
トイザらスなんかで売っているミニチュアの玩具みたいに見えた。
浜の波は静止しているように見えたし、
手を伸ばしたら触れそうな雲も、
その上にある真っ青な空も、
全てが不自然なものに見えてきた。
気付くと、この飛行機も、乗客も、僕でさえも、
全てが"不自然な"作り物"のような気がしてきた。

「もし僕がニセモノだったら、僕の思想もニセモノなのだろうか」

そもそも、世の中にはニセモノとホンモノの違いなんてあるのだろうか。
実は、僕らがホンモノだと思い込んでいるものは全部ニセモノで、
ニセモノだと思われたモノたちは、
彼らなりに僕らの事をニセモノだと思っているかもしれない。
そうだとしたら、世の中にはホンモノもニセモノも無い事になる。
いや、もしかしたら、自らをホンモノと呼ぶ人にとっては、
自分と自分に類するものに反するものを「ニセモノ」と敵意を込めて呼ぶかもしれない。

「ニセモノがホンモノの敵として生まれた言葉なのであれば、
 そんなの消滅した方が健康的だ」
...とニセモノのような世界を見下ろしながら僕は思った。
鹿児島ゆきの飛行機は、
相変わらずごうごうと大きなエンジン音を立てて大空を滑空している。
食べ物にも飲み物にも全く手を付けていなかった僕をCAが訝しげな目つきで見つめていた。
僕は気配でそれに気付いていた。
「今この機内に僕と同じ事を考えている人がいるだろうか?」
辺りを見回してみる。
焼酎で酔っぱらって顔を赤らめてCAに絡んでいるおやじがいる。
食事を終えてコーヒーを飲みながら、
ガザガザと不快な音を立てて新聞を読み直しているビジネスマンがいる。

「今のが最後の焼酎だったんですよー。
 もしよければ白ワインなんかもありますけれど、お持ち致しましょうか...」
「いやいや、俺は焼酎しか飲まらいんらよぅ。ほんろにもうらいろぉ?(本当にもう無いの)」
CAは「困ったやれやれ」という表情に、なんとか笑顔という仮面をかぶせている。
おいおい、ここは飲み屋じゃないんだぜ、おやじ。
「うあ~~~わわぁ~ふっ」
僕の後ろに座っているおやじは大きな欠伸とともに、恥もなく大きな奇声を洩らした。
後ろの方では赤ちゃんがぎゃあぎゃあと泣きだした。
舌打ちして赤ちゃんの方向を睨み付ける高級スーツの若いビジネスマン。
そのビジネスマンを軽蔑視する僕。
お前にも赤ちゃんの時代があったんだぞ。
そんな僕を訝しげに観るCA...。

機内は"ちぐはぐ"だった。
もう一度窓の外を観てみる。
相変わらず、そこには作り物のような大地が続いていた。
僕は暇さえあると、とりあえず地図を見ている事が多い。
曲を作ったり、ピアノの練習をしたり、
原稿を書いたり、メールを返したりする合間に、
数分、数秒でも日本地図を手にとって何となく眺めるのだ。
実際の景色と地図帳の中に広がっている世界は、殆ど変わりがないように思えた。
もしかしたら、僕のいるこの世界も、
誰かが広げた「地図帳の中の世界」なのかもしれない。

「でも」と僕は思った。
でも、僕の"気持ち"だけはニセモノでも作り物でもない。
子供の頃を懐かしんだり、誰かを大切に思ったり、
自分を責めたり、音楽に感動したりする心。
そういう、目に見えないけど体内にしっかり生息しているものだけは手放してはならない。
"気持ち"が自分からいなくなってしまう事を考えて僕はゾッとした。
「自分が自分であるという事は、けっこう繊細な事なんだ」
「生きるという事は、崖の上でワルツを踊っているように、
 危うく、脆く、美しいものなんだ」と僕は思った。
その頃、僕の視線の下にある山々に囲まれた湖では、
人知れず束の間の休憩をしながら水浴びを愉しむ孤独な水鳥が飛び立つところだった。


kagoshima.png
【世界はニセモノなのだろうか。
 たとえそうだとしても、僕のこの思想はニセモノではないと思う】