清塚信也 OFFICIAL BLOG: 2011年3月

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2011.03.29



人が成長していく過程には、「段階」というものがあるのかもしれない。
たぶん僕は、子供から大人に成長する過程で、
幾つかの重要な「段階」を飛ばしてきてしまったんだろうと思う。
だから、事あるごとに僕は子供の頃を思い出す。
子供の頃踏めなかったその「段階」を、未だに踏もうと試みている。
でも、どれだけ今の僕が必死になっても、
子供の頃の「段階」はもう踏めない事になっている。
それは、ただ追い求めることしか出来ない、永遠の課題となってしまっている。
「段階」は、順序を守って踏まなくてはいけなかったのだ。
A→B→Cという順番は不動のものだ。
Bを書くのを忘れたからって、A→C→Bと後から付け足してもだめだ。
そして、A→Cと書いてしまったら、人生ではもう後戻りは出来ない。
その人の人生からBは永遠に消えてしまう。
ただただ、BをCの前に書きたかった、という後悔を持って生きなくてはならない。
そういう、宿命的な悲劇が、人生には必ずある。
でも、Zに近づけば近づくほど、Bを書かなかった後悔は薄れていく。
後悔は薄れると悲しみに変わり、やがて懐かしさに変わる。
しかし、ある時、ある瞬間、
あのBを書き忘れた直後の鮮明な後悔をリアルに思い出す時がある。
それは、思いもよらない時に、不意をついてやってくる。
ドビュッシーの誘惑的な和音を聴いた時や、
友人の赤ちゃんが僕の人差し指を全身全霊かけた力で握ってきた時...。
きっかけは本当にわけのわからないものばかりだ。
僕は、Bの突然の襲来に戸惑う。
胸を掻きむしられる。
そして、思い出す。
子供の頃に、忘れてきてしまったBの存在を。はっきりと。
Bは僕を赦していない。
地縛霊のように、今でも僕に書き忘れ去られた事をずっとその場で恨んでいる。
僕はそんな時、悲しいよりも、切ないよりも、苦しいよりも、申し訳ない気持ちになる。
いたたまれない気持ちになる。
わかっている。君は僕に書かれなかったBなんだろ?
もう、僕の人生ではBを書く事は出来ない。
だから、僕はZを迎えた時も、まだBの手前から成長出来ていない。

今僕は人生の先輩から、多くの事を学びたい。
同じようにBを書き残してきてしまった大人から、お手本を見せてほしい。
そして、少しこの先の人生の展開を教えてもらいたい。
今後、Bの存在は、どう変化して行くのか、
それともこのままずっと僕はBを慈しみ続けなくてはいけないのか。
僕は子供だ。
Bの時点から成長出来ていない。
だから、僕を「甘えてる」と思う人が世の中には沢山いるだろう。
事実、そういう僕の生き方を批判的にとる人は山ほどいる。

今日僕は、被災地支援のための義援金コンサートを横浜の小学校で行ってきた。
最後に写真撮影のために児童とぎゅっとくっついた。
僕の周りに寄ってきた児童はまだ8歳やそこらで、
僕の指や腕を人ごみの中で迷子にならないように
母親のを掴むかのように、ぎゅっと握りしめてきた。
報道陣や保護者が一斉にフラッシュをたきながら撮影する。
僕はこの上なく充実した一瞬を味わった。
でも、同時に「何かが足りない」と思った。
まぎれもなくそれはBだった。
しかし、そのBの存在は、咲き始めのキンモクセイのように一瞬漂ってすぐに消えた。
わかってる。
でも、今はもう少し待っててくれ。
「時間よ止まれ」と言い放ったファウストのように、
その時が来たら、僕は、B、君の事だけを考えて余生を過ごす。
だから少しだけ待っていてくれ。
今は、小さいけれど、こんなにやれる事が残っているんだ。

目の前の子供たちの笑顔の数だけ、被災地が救われる。
僕は、甘えながら、弱音を吐きながらだけど、
頑張ってそのサイクルの一環になれたらと思う。
どうか、その猶予を下さい。