清塚信也 OFFICIAL BLOG: 2011年5月

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2011.05.25

帽子なんて無かった

その頃僕は帽子に依存していた。
僕の人生は依存の人生と言っても過言ではない。
中学3年生の時にサングラスと出逢い、20歳くらいで帽子と出逢った。
サングラスはとても便利だった。
電車やバスで人と目が合わないだけで自分が透明人間のようになれた。
透明人間になったと思えるだけで、
ちょっとしたストレスや恐怖がとたんに薄れていった。

帽子は、そういう意味ではまったく効力のないアイテムだった。
視線は隠せないし、透明人間のようにはなれない。
でも、それは一種のトレードマークのようなものだったのかもしれない。
僕は、帽子ですっぽり頭を隠す事で、
外部から何かを守っているような気になっていたのかもしれない。
守りの象徴。
それが僕にとっての帽子だった。

しかし、アテネからクレタ島に着陸した小さなプロペラ機から降りた瞬間、
その象徴はまるで手品か何かのように、僕の前から忽然と姿を消してしまった。
アテネからクレタ島へ行ける小さなプロペラ機の着陸場所は、滑走路だった。
小さな空港で、便数もスペースもそんなに無いから、
着陸してからちょっとだけ直進して、すぐ客を降ろす。
まるでタクシーみたいに気軽に。

僕はクレタ島の熱さと、
地中海の強い紫外線を感じて、晴れやかに飛行機を降りた。
でも、外に出た次の瞬間、
僕の頭に被さっていたはずの帽子が一瞬にしてどこかへ行ってしまった。
要は、風が物凄く強かっただけなのだけど、
僕はその帽子の無くなり方に何かの意味を見いだしてしまった。
僕の身体の一部をクレタ島の風が奪い去っていったかのようだった。
「盗まれた」それが一番しっくりくる言い回しだった。
僕の中の、何かの象徴を、盗まれたのだ。
幸先悪いな、と思った。
でも、それは違った。

帽子は盗まれた。
風で飛ばされてなんかいない。
だって、帽子が風に飛ばされた直後、
すぐに飛ばされた方向を振り返ってみたけど、そこには何も無かった。
先にキラキラとした地中海が広がっているだけで、
僕の帽子は存在しなかった。

"はじめから無かったかのように"

結果から言うと、僕の帽子は盗まれてなんかなかった。
幸先も悪くなかった。
クレタ島の風が僕から奪ったものは何も無い。
帽子なんか、はじめから無かったのだ。
盗まれた事に注目しすぎて分からなかった。
でも、僕はその島を出る頃には気づいてた。
本当に必要なものは何一つ無くなっていない、と。

2011.05.11

川のある公園

公園を鳩が歩いている。
首を動かした反動で足を動かして歩くその独特のフォームをじっと観ていると、
何だか鳩がおもちゃに見えてきて不思議だ。
「君は、どうして人が無性に悲しくなる時があるか、知っているかい?」
「いいえ、知りませんね」
「人はね、若いときだって、ちゃあんと知っているんだ」
老人はひとつ咳払いをしてから続けた。
「自分が死ぬという事をね。後頭部の裏のあたりとでも言おうかねえ、
 そこらへんで、なんとなくいつも感じているもんなんだよ、死の存在を」
鳩は、公園に生い茂る芝生の中を一生懸命つついている。
あんなにつついて、何か美味いものでもあったのだろうか?
「今日は天気がいいねえ。こんな良い日和を体験すると、
 人生から離れたくなくなるじゃないか。
 いやだねえ、往生際が悪いというのは」
その老人の独白のような言葉達を僕は日光浴をするかのように浴びていた。
なぜか頭の中にはモーツァルトのピアノ協奏曲が流れていた。
演奏はグルダだ。
グルダのCDを子供の頃からよく聴いていた。
グルダの録音は時折彼の声が入ってしまっている。
子供の頃、その声を聴いて、
「あんなに声出してよく自分の音が聴けるな」と不思議に思っていたのを思い出した。
「のう、若いの。君も今徐々に死んでいっているわけだが、どうだ?」
「どう、と言いますと?」
「死んでいる感覚か、それとも、生きている感覚か」
死んでいる感覚、と即座に僕は思った。
でも、敢えて逆を言った。
「そりゃ、生きてる感覚ですね」
「ほほほ、若いのう」
それだけ言うと老人はただ黙って真っすぐ川を見つめていた。
暫くすると、音も立てずに立ち上がって、杖をついてどこかへ行ってしまった。
老人の足跡には杖の跡がくっついていて、
三本足の妙な生き物が通ったかのようになっていた。
どうやら夕方に近いらしい。
太陽が近くから熱を出している。
鳩は、いつの間にかどこかへ去ってしまっていた。
僕は、あの鳩が飛び立つ瞬間が見たかった。

2011.05.10

孤独を愛して

「海の上のピアニスト」という映画で、
ティム・ロスが演じる"絶対に船から降りないピアニスト"が
演奏を楽しむだけ楽しんだ後、
船が目的地に着いてクモの子を散らすかの如く
引き上げて行ってしまう聴衆達をみて、
独り残された部屋でとても寂しそうな表情をするシーンがある。
でも、その時のティム・ロスの表情は絶妙で、
寂しさの裏にも充実感に似た何かが表れている。
同じピアニストとして、その表情に信じられない程共感させられた。
ピアニストという職業は、ある一瞬だけ、他人とひとつになれる職業だ。
ピアニストがピアノに向かい、そこに聴衆がいて、
ピアノの音色に耳を傾けてくれている時だけだ。
しかし、演奏時間が終わると、
今まで音によって人々がひとつになっていた空間が、
一瞬にして現実的になってしまう。
魔法が解けてしまったかのように。
あるいは、催眠術が解けて、
「あれ?ここはどこ?私は何やってたの?」と言っている時のように。
その時はとても寂しい。
強烈な孤独を感じる。
でも、その「強烈な孤独」によって、
ピアニストは改めて「そうか、僕はピアニストなんだな」って自覚する事が出来る。
慣れてくるとその孤独を愛せるようになってくる。
そうなればホンモノだ。

何かに打ち込むことや、本気で何かを突き詰めるということ、
何かの役に徹することは、とても孤独な行為だ。
でも、その孤独を感じる時、
むしろどこかで充実感と安らぎ、
そして自分の「居場所」を感じられるようになったなら、
それがその人の留まるべき場所なんだと思う。
海の上のピアニストは、人生に一度だけ船を降りようと決心し、
タラップを陸まであと半分という所まで降りてくる。
しかし、そのまま振り返って船に帰ってしまう。
その時、どうしてピアニストが帰ってきてしまったかというと、
それは「街が永遠すぎるから」という理由だった。
ピアノは88鍵という限りがあって、弾く人間の想像力が永遠になれる。
しかし、街は大きすぎる。
どこまでも繋がっている道...。
終わりの無い鍵盤のピアノなんて、誰も弾けやしない。
この言葉に全てが集約されていると思う。

何かに没頭するということは、他を排除して、
腹をくくってその世界だけを見て生きて行くと決心することだ。
結婚と同じ。
その世界を選んだら、
その世界でしか生きて行けないという束縛や
孤独感をも愛して生きていかなくてはならない。
決して陸を踏まなかった、あの「1900」のように。