帽子なんて無かった
その頃僕は帽子に依存していた。
僕の人生は依存の人生と言っても過言ではない。
中学3年生の時にサングラスと出逢い、20歳くらいで帽子と出逢った。
サングラスはとても便利だった。
電車やバスで人と目が合わないだけで自分が透明人間のようになれた。
透明人間になったと思えるだけで、
ちょっとしたストレスや恐怖がとたんに薄れていった。
帽子は、そういう意味ではまったく効力のないアイテムだった。
視線は隠せないし、透明人間のようにはなれない。
でも、それは一種のトレードマークのようなものだったのかもしれない。
僕は、帽子ですっぽり頭を隠す事で、
外部から何かを守っているような気になっていたのかもしれない。
守りの象徴。
それが僕にとっての帽子だった。
しかし、アテネからクレタ島に着陸した小さなプロペラ機から降りた瞬間、
その象徴はまるで手品か何かのように、僕の前から忽然と姿を消してしまった。
アテネからクレタ島へ行ける小さなプロペラ機の着陸場所は、滑走路だった。
小さな空港で、便数もスペースもそんなに無いから、
着陸してからちょっとだけ直進して、すぐ客を降ろす。
まるでタクシーみたいに気軽に。
僕はクレタ島の熱さと、
地中海の強い紫外線を感じて、晴れやかに飛行機を降りた。
でも、外に出た次の瞬間、
僕の頭に被さっていたはずの帽子が一瞬にしてどこかへ行ってしまった。
要は、風が物凄く強かっただけなのだけど、
僕はその帽子の無くなり方に何かの意味を見いだしてしまった。
僕の身体の一部をクレタ島の風が奪い去っていったかのようだった。
「盗まれた」それが一番しっくりくる言い回しだった。
僕の中の、何かの象徴を、盗まれたのだ。
幸先悪いな、と思った。
でも、それは違った。
帽子は盗まれた。
風で飛ばされてなんかいない。
だって、帽子が風に飛ばされた直後、
すぐに飛ばされた方向を振り返ってみたけど、そこには何も無かった。
先にキラキラとした地中海が広がっているだけで、
僕の帽子は存在しなかった。
"はじめから無かったかのように"
結果から言うと、僕の帽子は盗まれてなんかなかった。
幸先も悪くなかった。
クレタ島の風が僕から奪ったものは何も無い。
帽子なんか、はじめから無かったのだ。
盗まれた事に注目しすぎて分からなかった。
でも、僕はその島を出る頃には気づいてた。
本当に必要なものは何一つ無くなっていない、と。








