清塚信也 OFFICIAL BLOG: 2011年6月

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2011.06.09

モオツァルト

映画「マトリックス」を観て以降、
そういう考え方が割と当たり前になってきてる感じがしていたので、
書く気にもならなかったけど、
今日は勇気を振り絞って当たり前だと思う事を敢えて書いてみようと思う。

この世に自分が"本当に生きているか"を100%証明するのは、
殆ど無理に近いくらい難しい事だ。
今、こうして文字を打っているのが夢じゃないとは、誰も裏付ける事が出来ない。
「いやいや、私なんて夢の中だったらちゃーんと分かるよ、これは夢だって」という人がいた。
でも、分らないからって夢じゃない証拠にはならない。
夢だって分かる時だけ夢だって判断出来てるだけかもしれない。

昔、本で読んだのだけど、
アメリカのある脳学者が、脳のある部分を刺激すると、
その患者自身の"実際の幼い頃に飛ぶ"事が出来たという。
その患者は、その部分を刺激されて、記憶を思い出したのではない。
"実際に飛んだ"のだ。
患者は椅子の上で固定されて、脳のある部分を刺激されている間中、
本当に幼い頃にも戻って、実際にその時代をもう一度生きる事が出来たという。
机の上のコップに入っている水を飲む事が出来たし、
外に出て稲の生い茂った草原を優しい風を感じながら走る事が出来た。
しかし、この実験が元で、僕たち人類は「リアル」というものを失った。

僕たちの身体は、無くても良いのかもしれない。
脳だけがどこかの水槽みたいな入れ物に入れられていて、
そこで誰かに脳細胞を刺激されているだけかもしれない。
少なくとも、僕たちはそれを否定出来る材料を持っていない。
でも、この事実を知った時、僕は複雑な気持ちになった。
悲しみ、無力感、虚無感、と共に、どこかで安堵している自分がいた。

全てが虚構なら、それはそれで良いかもしれない。
そんな考えさえ浮かんだ。
だけど、ひとつだけ言える希望がある。
それは、自分が本当に生きているか、という疑問はそれほど重要じゃないという事だ。
この人生がホンモノであろうと、
水槽の中で飼われているだけの虚構であろうと、それほど大差はない。
何故かというと、どちらにしろ、
そんな現実よりもっと大切なものを見つける権利が人生にはあるからだ。

自分以外の人間から信頼されたり、愛されたりする事は、
その人がこの世に生きている裏付けをしてもらっている事と等しい。
僕は、むしろそういう事の方が、人生をよりリアルなものにすると思う。
実際に生きているかどうかではなく、
誰かに自分の存在を裏付けしてもらってるかどうかが、人生をリアルにするためのポイントだ。
そのために勉強するし、そのために努力する。

本当は、地球を汚すだけのガン細胞みたいな存在かもしれない。
本当は、長い宇宙の歴史からみれば、
人類が生まれて滅亡する事なんて、本当に一瞬の出来事かもしれない。
本当は、僕らのしてる事は、全て何の意味もない、気が遠くなる程下らない作業かもしれない。
本当は、と考えると、全てに当てはまってしまう。
そして、それらの疑問に答えられるリアルはそうそう存在しない。

何がモーツァルトだ、と思う時がある。
やっぱりモーツァルトだ、と思う時もある。
少なくとも、僕はステージでモーツァルトを弾く時、それが美しい行為だと心から思っている。
もし、それが"本当じゃない"考えなら、ただただ、赦してほしい。
春の優しい風と共に訪れるモーツァルトの第二テーマで、僕は泣いてしまうのだから。